総院長日記
2013年8月21日 水曜日
総院長のひとりごと10
僕は、昭和31年2月の生まれです。前年の昭和30年に経済白書で「もう戦後ではない」と発表され、高度経済成長が、スタートした年ですね。
生まれも育ちも三重県四日市の漁師町で、24歳まで暮らしました。僕の最初の記憶は、昭和34年9月の伊勢湾台風ですが、その夜の数時間のことだけ覚えているんですよね。家は、海から1キロも離れていない所ですぐ南には、桜並木の小川が、流れ、海岸は海水浴場でした。当時は防波堤もなかったと思います。 二階で、祖母、母と弟の4人で、舟のように揺れる家と、暴風雨の轟音しか覚えていないのですが、その後の記憶は、6歳までないんですよね。記憶していない本能的な恐怖感がどこかに潜んでいるのかな、と思うくらいそれだけ覚えているんです。
昔からの漁師町で、人情味があり仲間意識の強い町で、僕はそんな町が、好きでした。気性も荒かったですけどね。伊勢湾台風の後、急速に町が変わっていきました。
最初の頃は料金所があったと思いますが、国道23号線が開通し、防波堤ができていきました。数年で、コンビナートが、町のすぐ近くまで拡張してきました。中学に上がるまでは、まだ一部海水浴場は、残っていてタコの噴水だけが最後まで残っていましたね。幼稚園からその頃、そして高校卒業までが、本当に懐かしい思い出です。
伊勢湾台風の年に、両親は離婚していました。母は病弱で、今思うと薄幸な人生だったかもしれません。43歳で、亡くなりました。祖父は、僕が生まれる前に亡くなっていましたので、僕たちは、祖母に育てられました。家政婦紹介所を経営していましたが、当時は大変だったと思います。 少し長くなりそうなので、続きは近日中に「ひとりごと」に書こうと思います。
総院長 伊藤暁彦
生まれも育ちも三重県四日市の漁師町で、24歳まで暮らしました。僕の最初の記憶は、昭和34年9月の伊勢湾台風ですが、その夜の数時間のことだけ覚えているんですよね。家は、海から1キロも離れていない所ですぐ南には、桜並木の小川が、流れ、海岸は海水浴場でした。当時は防波堤もなかったと思います。 二階で、祖母、母と弟の4人で、舟のように揺れる家と、暴風雨の轟音しか覚えていないのですが、その後の記憶は、6歳までないんですよね。記憶していない本能的な恐怖感がどこかに潜んでいるのかな、と思うくらいそれだけ覚えているんです。
昔からの漁師町で、人情味があり仲間意識の強い町で、僕はそんな町が、好きでした。気性も荒かったですけどね。伊勢湾台風の後、急速に町が変わっていきました。
最初の頃は料金所があったと思いますが、国道23号線が開通し、防波堤ができていきました。数年で、コンビナートが、町のすぐ近くまで拡張してきました。中学に上がるまでは、まだ一部海水浴場は、残っていてタコの噴水だけが最後まで残っていましたね。幼稚園からその頃、そして高校卒業までが、本当に懐かしい思い出です。
伊勢湾台風の年に、両親は離婚していました。母は病弱で、今思うと薄幸な人生だったかもしれません。43歳で、亡くなりました。祖父は、僕が生まれる前に亡くなっていましたので、僕たちは、祖母に育てられました。家政婦紹介所を経営していましたが、当時は大変だったと思います。 少し長くなりそうなので、続きは近日中に「ひとりごと」に書こうと思います。
総院長 伊藤暁彦
投稿者 東京新宿メイルクリニック